父と息子|「家族のために…」親父との思い出話がマジで泣ける!

家族
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あなたは父と息子として、”おやじってやっぱスゴイ”と、一度ぐらいは感じたことがありませんか?

高校生位までは、なかなかそういうところに、気が付かなかったりするものですが、社会人になったり、同じ世代になると初めて父の偉大さに、気付くこともあります。

今回は、寡黙でもいま思えば、俺の親父、すごかった。

「家族のために…」まじ泣けるエピソードを、9つ紹介していきます。

1. 危機が迫った時

私が小学生の頃、父と2人で歩道を歩いていた時に、一台のバイクがふらふらと蛇行しながら突っ込んできた。

父は瞬間的に私に覆いかぶさり、身を挺して私を守ってくれた。

自分が父になった時、父のようになりたいと思ったことを鮮明に覚えている。

【長野豊】

2. 病気の時

親父は“仕事人間”でいつも帰りが遅かった。

でも、幼い私が熱を出した時には氷枕を作ってくれて、私が眠っている間に冷たいタオルをおでこに置いてくれた。

夜中に目を覚ました時も、冷たいタオルがおでこにのっていて、当時はそれが当たり前だと思っていた。

実際は、タオルを取り替えに、親父が何度も私の部屋まで来てくれていたのだろう。

そんな親父なりの愛情表現を、自分が親になって初めて感じることができた。

【野澤俊通】

3. 再会の時

大学時代に帰省する度、1人暮らしの自分を心配して親父がこっそり1万円を渡してくれていた。

そんな親父の小遣いは1万円だった。

【柴田瑞樹】

4. 夢を目指した時

高校時代、球児だった私は寮生活をしていた。

父は私の試合を観にくる度に、折りたたまれた5千円札を無言で渡してきた。

私はそのお金で、毎日の昼食におにぎり2つを追加していた。

身体を大きくするためだ。

余ったお金は父に返そうと思っていたが、高校野球引退後、大学で使用するための野球道具をさらに買わせてくれた。

【中谷良也】

5. 忘れ得ぬ時

父は、私が高校2年のときに他界した。

亡くなるその瞬間まで弱音を吐かず、常に前向きだった。

私は今でも、その父の背中に憧れながら日々を送っている。

【服部泰卓】

6. 挫けそうな時

大学進学で上京して暫く経った頃。

挫けそうになった私に、九州男児の父から「調子はどうだ?」と珍しく電話があった。

堰を切ったように泣き出した私に、「タクシーでいいから今から帰ってこい!お前には帰る場所がある」と一言。

そのおかげで、今も東京でなんとか頑張っている。

【上久保晶幸】

7. 冒険した時

初めて海外(香港)へ一人旅する際に、「この人を訪ねろ」と父が知り合いを紹介してくれた。

素敵な店を教えてくれて満足だったが、後から聞いたところ、私が危険なエリアに行かないようにと手を回してくれていたらしい。

【内山康哉】

8. やっちゃった時

大学時代、毎月の電話請求額が高すぎると家で騒ぎになった。

私がダイヤルQ2にこっそり接続していたからだ。

身に覚えがないふりをしていると、父が名乗り出て、私の代わりに母に怒られてくれた。

実は当時、父もこっそりダイヤルQ2に接続していたようだが、それはそれとして、その節は本当にすみませんでした。

【川口亮(仮名)】

9. 家族がピンチの時

幼少の頃、母が病気で長期入院していた。

父はその間、朝から会社の営業車の助手席に僕を乗せて仕事に励み、帰宅後は不器用ながら家事をしてくれた。

「家族を守る」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、この父との思い出だ。

【長島敦】

まとめ

私は小さい時遊んでいて、目にゴミが入った時に、父が自分の舌で、目の中のゴミをとってくれました。

今では衛生的にどうなのか?という心配もしますが、この時に親父の愛情を感じました。

父親の多くは、やはり寡黙なタイプが今でも、少なくはないと思います。

だから自分の事は、それほど好きでもないかも?と、ついつい思ってしまいますが、実は心の奥ではちゃんと、あなたのことにも愛情を隠し持っているのかもしれません。

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